久保田のまちづくり…城が築かれた神明山(現千秋公園)の南には、城に仕える侍たちが住む「内町」、そして旭川をはさんで、まちを活気づけた町人たちが住む「外町」、さらにその西側には端然と寺屋敷が並ぶ「寺町」がありました。
昭和58年、寺町通りは
「市民が選ぶ都市景観賞」を
受賞しています
久保田の町の形がほぼできあがったとされるのが寛永年間のころ(1624~43年)。寛文3年(1663年)の「外町屋敷間数(けんすう)絵図」(県立図書館蔵)を見ると、寺町には40ほどのお寺があったようです。そしてそれらはおおむね三つの種類に分けられます。
一つ目は、転封前の佐竹義宣が住んでいた地、常陸の国から義宣を追うように移ってきたお寺。鱗勝院、龍泉寺、一乗院、東清寺がそれにあたります。
国替えを命じられた当初、義宣は常陸の諸寺院に対し、常陸に残るよう勧めました。それでも、いくつかの寺院は佐竹氏に随従したのです。
二つ目は、まちづくりのために土崎湊から呼ばれた町人と同様、土崎湊周辺(現在の土崎、寺内、飯島)から移ったお寺。「湊三か寺」と呼ばれていた大悲寺、妙覚寺、光明寺をはじめ、浄願寺、西善寺、東福(当福)寺、釈迦堂など18のお寺が移転してきました。
そして三つ目が、久保田の町で開かれたお寺。弘願院、誓願寺、普伝寺などが挙げられます。
お寺を外町の西側に並べたことには、戦(いくさ)の時の防衛体制、戦略的な要素も含まれていました。大きく丈夫な建物と広い敷地を備えた寺院は、敵を迎え撃つときの格好の待機場所となったでしょうし、攻め入る敵の“壁”となって、一時的にその足を止めることにもなります。そして寺院をすき間なく並べて配置することで、その壁をより強固なものにしたのでしょう。
全国にはたくさんの城下町がありますが、必ずと言っていいほど寺町が存在し、同様の役割を果たしていたようです。義宣も江戸や京(都)でたくさんの城下町を目にしていたでしょうから、どこかの町を参考にまちづくりを始めたのかもしれません。
寺町のお寺には、歴史的価値の高い文化財が数多く残っています。中には県や市から指定を受けている文化財もありますが、なにしろ、寺町の空間自体が歴史資料のようなものですから、指定を受けたもの以外にも貴重な文化財がたくさん、そして大事に保存されています。
寺町通りを歩いているとなぜか気が引き締まります。威光を放つ大きな門、樹齢を重ねた巨木、静かに流れる空気…。
信仰と戦略という、異なった二つの側面を持ったまち。久保田の安定に決して欠かすことのできなかったまちです。
※これらの展示は千秋美術館で。
初代秋田藩主・佐竹義宣によりまちづくりが進められた久保田の町は、大きな火災を繰り返した悲しい歴史も持ち合わせています。
久保田城ができあがったのは寛永8年(1631)ごろとされていますが、そのわずか2年後の寛永10年の火災で城の本丸が焼失しています。その後も城は何度か火災に見舞われ、明治13年(1880)の火災を最後に、城のほとんどが焼失してしまいました。
また、城下の町にしても、慶安3年(1650年)の大火では、2,000軒余の家が焼失したとされ、その後も焼失軒数1,000軒を超える大きな火災を幾度も経験しました。
そして、最も被害が大きかったとされるのが“俵屋(たわらや)火事”と呼ばれる、明治19年(1886年)に起こった大火。外町で上がった火の手は強風にあおられて勢いを増し、八橋、寺内にまで及びました。3,500軒以上の家が焼失、お寺や学校、銀行なども燃えてしまい、外町は焼け野原状態だったといいます。寺町で被災を免れたお寺は、たった2軒しかありませんでした。犠牲者17人、186人もの負傷者を出し、2,000人を超える人たちが避難生活を余儀なくされました。
何度となく町を襲った大火。そのたびに復興に費やされた努力はどれほどか知れません。悲しい歴史を二度と繰り返すことのないよう、火の扱いには十分気をつけたいものです。
記事提供/
秋田市広報広聴課
広報あきた2004年11月12日号No.1589
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20041112/11-12.html