厳選特集

くぼた旧町名物語 (4)江戸屋敷跡「台東区・千代田区・足立区」編


久保田のまちの礎(いしずえ)

ちから溢れるまち
東京に今も残る“佐竹”の名と紋章


秋田藩の江戸屋敷の
位置図(平成16年当時との対比)

 江戸時代、諸大名は幕府から江戸に土地を与えられ、江戸屋敷を設けていました。参勤交代の制度により諸大名は一年おきにこの江戸屋敷に住み、また、妻子は幕府の人質のようなかたちで江戸へ常駐させられていました。
 秋田藩の佐竹氏も、今の台東区周辺に、上屋敷、中屋敷、下屋敷のほか、自分で確保した土地に抱(かかえ)屋敷を持っていました。
 上屋敷は藩主や家族が暮らした住居。中屋敷には隠居した藩主などが住み、上屋敷が火事になった場合などの備えの役割も兼ねていました。また下屋敷は国元から送られてくる物資の保管場所になっていました。
 佐竹氏の上屋敷は最初、内神田(千代田区)にありましたが1682年に焼失。その後、下谷七軒町(台東区)に移り、明治2年に火災で焼失するまで存在しました。
 内神田の神田駅西口商店街の一角には現在も「佐竹稲荷神社」が残り、下谷七軒町の上屋敷跡には「佐竹商店街」の店が並び、今も佐竹の名が伝えられています。
 JR鶯谷駅の近くには、初代秋田藩主・佐竹義宣が正室正洞院を供養するために建立したお寺「正洞院」があります。また足立区梅田の抱屋敷跡にも「佐竹稲荷神社」が残り、足立区花畑には佐竹家と同じ″五本骨扇に月丸″の紋章を持つ「大鷲(おおとり)神社」があります。
 佐竹義春侯爵(明治23年~昭和19年)の別邸があった千代田区九段には、佐竹家に伝わる資料を展示している「千秋文庫」もあります。
 今も東京各地に残る秋田藩佐竹氏の名と紋章。東京へお出かけの際は、ぜひ訪ねてみてください。

佐竹商店街(台東区台東三・四丁目)



商店街振興組合の長谷川理事長(中)、
秋本副理事長(左)、
酒井さん(平成16年当時の写真)

 下谷七軒町の佐竹家上屋敷は、明治2年に焼失。跡地には明治6年ごろから寄席や見せ物小屋、茶屋などが集まり始め、やがて飲食店や古着屋などの店も軒を並べ、明治30年代には商店街が成立(全国で2番目)。昭和初めまでの全盛期は大勢の客でにぎわい、下町佐竹の名は東京中に響きわたりました。


佐竹商店街は、全長330メートルの全蓋式アーケードの商店街で、JR御徒町駅から徒歩10分。
地下鉄大江戸線(または、つくばエクスプレス)新御徒町駅すぐ。

佐竹稲荷神社(千代田区内神田三丁目)

 上屋敷のあったJR神田駅西口商店街にある「佐竹稲荷神社」。西口商店街では、2年に一度秋田県湯沢市の七夕絵どうろうまつりを開き、人気を集めています。

下谷七軒町の佐竹家上屋敷を描いた絵(仁平裕一さん蔵)


下谷七軒町の佐竹家上屋敷を描いた絵(仁平裕一さん蔵)…現在の台東区台東三・四丁目の東半分にあたる広大な敷地(約16,000坪)に、三階建ての豪壮な主屋と7つの蔵がありました。下谷七軒町の上屋敷は1690年ごろ、秋田三代藩主佐竹義処のころに建てられました。屋敷に接する堀は、三味線のような形をしていたので、三味線堀と呼ばれ、この上屋敷も「下谷三味線堀屋敷」と呼ばれていたそうです。

正洞院(台東区下谷二丁目)

「初代秋田藩主・佐竹義宣が慶長6年(1601年)に建立したお寺で、義宣の正室の正洞院(しょうどういん)のお墓があります。長年お寺を守る神野たづ子さん(平成16年当時の写真)が温かく迎えてくれます。
JR鶯谷駅から徒歩10分。地下鉄日比谷線入谷駅から徒歩2分。

佐竹稲荷神社(足立区梅田六丁目)

佐竹家抱屋敷の屋敷神をまつった、足立区にある「佐竹稲荷神社」。
足立区の住宅街の中にポツンと残り、地元では「いぼ稲荷」とも呼ばれ、豆腐と油揚げを供えて食断ちをするとイボが治るといわれています。

大鷲神社(足立区花畑七丁目)

「五本骨扇に月丸」の佐竹家と同じ紋章を持つ大鷲神社。佐竹家とのつながりは平安時代にさかのぼり、本殿は源義光の後裔である佐竹氏の寄進によるもので、柱には、左甚五郎の弟子が作った彫刻があるそうです。


禰宜(ねぎ)の濱中厚生さん(平成16年当時の写真)「秋田のみなさん、ぜひ一度おいでください」

千秋文庫(千代田区九段南二丁目)

「千秋」の名が付く秋田県ゆかりの資料館(写真ビルの1・2階)。
佐竹家に伝わる古文書、絵画、古地図などを展示しています。


歴代藩主の花押・印章を展示


学芸員の金森陽さん
(平成16年当時の写真)


記事提供/
秋田市広報広聴課 
広報あきた2004年8月13日号No.1583 http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20040813/8-13.html